存在と時間メモ

底本は光文社古典新訳文庫「存在と時間」(訳:中山元)。

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存在は問われていない(=自明なものとみなされている)。 存在の意味を解釈することで、時間を通じて存在了解(=?)を可能にする。

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序論

第一章 第一節

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存在は忘れられた。

004

存在は、もっとも普遍的で空虚な概念(=議論のうちのプリミティブな概念)であるとされ、自明なものとされた。

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存在が自明であるとの先入観を抱かせた先入観は、古代の存在論を起源としている。 その検討のために、存在についての問いとその答えを明らかにしなければならない。 そのためにここで検討する先入観は3つある。

006 1. 存在の概念の普遍性

存在はもっとも普遍的であるとされる。 しかし、存在の普遍性は類(カテゴリーのこと)の普遍性ではない(これはアリストテレス?的な分類における種と類における類)。 存在者(存在するもの?)が類と種によって構造化されるなら、存在は類になることができない(すなわち、述語になれない)。 存在は「超越概念」である。 なんらかの事柄は、その一番の抽象化で多様な類によって記述されるが、存在はそれを超越してあらゆる物事をその射程に収めてしまう。 そこで、その存在の性質について「類比による統一」と名をつけた。 つまり、存在が普遍的であることは自明ではないし、あらゆる事物に対して適用可能なのも自明ではない。

007 2. 存在の定義不能性について

存在を定義することはできない。 それは(アリストテレスに従うならば)最も近い種との類差によって定義することができないということでもあり、何らかの存在者によって、もしくは上位下位の概念から定義できないということでもある。 ただし、これは「存在」が存在者のようなものではない、という事実と、定義を用いて存在を形作るということができないということを示唆するだけに過ぎない。

008 3. 存在の自明性について

存在は自明であるとされており、実際になにかがあるというときにはその存在を暗黙裡に仮定している。 つまり、私達はすでに存在の存在了解(!!)の中で生きているのである。

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しかし、そのような自明なものを解き明かすのが哲学者の仕事である(大いに同意)。

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存在への問いは答えの前に、問いがすでに方向性にかけているため、問題設定を十分に展開する必要がある。

第二節

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問いの性格をまず示すことで、存在についての問いが特別な意味を持つことを示す。

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問うとは何か。 問うということは、探し求めることであるが、探し求められているものからすでに何らかの指針があるような中でそれを行うことでもある。 つまり、探し求められるものについての問いになるので、「〜について」問われているもの(ゲフラーテス)と「〜に」問いかけられているもの(ベフクラーテス)が存在する。 さらに、その「〜について」問われているものの中に問いただされているもの(エアフラークテス)が存在し、それが求められたときに問いはその目標(=問に答える)を達したことになる。

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では以上を用いて、存在の問いを設定しよう。

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問うこと=探し求めることなので、何らかの形で身近に解決の糸口がないといけない。 まず、「存在とは何であるか」という問いについて考えることで、すでにあるという存在了解がそこにあるといえる。

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でも存在了解はどのように存在了解があるのかわからないために、いま使うことはできない。

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ただし、存在了解があるということはなんらかの後ろ盾があるっぽい、ということになる。 その後ろ盾については、まだ何もわからない。

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013に依拠すれば、「問われているもの」=ゲフラーテスは<存在>である。 <存在>は、存在者をそれとして規定し、存在者をどのように説明しようともその都度すでに<土台となる所>の存在として理解されているもの(???)。

存在者の存在は、それ自体が存在者であるわけではない(=循環的定義の否定)。 よって、<存在>は存在者とは違う形で提示されねばならない。

「問いただされているもの」=エアフラークテスは存在の意味である。 これもまた、存在者の意味=意義とは異なった性格を持つ。

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いま、存在者は<存在>(通常の意味とは異なる、対象としての存在としてこのように強調しておく)なので、問いかけられているものはもちろんその存在者自身である。 存在者の存在について性格を明らかにさせるためには、存在者の存在どおりの姿で近づく必要がある(=「問いかけられているもの」への適切な近づき方の確立)。

ただし、あらゆるものを「存在するもの」と呼んでいる以上、私達が「存在しているという事実」=ダスザインと「そのように存在しているという事実」=ゾーザインのうちにも存在はある。 あらゆるものは「現にそこに在るもの」=ダーザインとして存在している。

では、問いは どの 存在から存在の意味を読み取り、 どの 存在者を選べばいいのだろう?

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<存在>を把握するためには、存在の問いを明示し、俯瞰し、意味を理解して、存在者に適切な方法で近づく必要がある。

ところで、この在り方自体が存在様態である。 つまり、私たちが このように 問いを立てるということにより私たちはある特定の存在者「問う者」として確立され、様々なことを通して問いを見つめることが私たちの様々な存在様態になる。

存在者の存在様態として<存在>の問いを問うことがあるならば、問いにおいて「問われるもの」である存在によって、問いは規定される。 この存在者は我々であり、問うということをみずからの存在の可能性の一つとして持つ。 この「問いを問うということを存在様態として持つ」存在者を現存在=ダーザインとしよう。

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しかし、このように存在者の規定から存在の問いを設定して、その後で存在者の存在についての問いを問うことは循環論法ではないか。 とりあえず無視。(なぜこのような書き方をして反論をするのか理解できず。)

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ただし、存在についてはっきりとすべてを認識していなくても、存在者はその存在について規定されうる。 実際にいままでの存在論でも存在が前提とされてはいるが、すぐに利用できる=完全に明るみに出た概念ではなかった。 そこでは、考察においてあらかじめ存在を考慮しており、与えられている存在者が存在に分節(=はっきりと〜として区分すること)されているということである。

つまり、存在にまなざしを向けること=存在を前提として存在論的考察を行うことは平均的な存在了解から生まれたものであり、現存在の機構のうちに組み込まれているものである。

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以上のように、存在の意味への問いは「問われているもの」、すなわち<存在>が存在者の存在様態である問いそのものに再帰的に含まれている。 とすれば、「現存在」は存在問題そのものを存在者の存在様態とするわけであり、<存在>と極めて密接に関わっている。 これは「現存在」が存在問題に対して優位であることを意味し、はじめに「問いかけられているもの」としての役割を果たすべきものとして与えられるのではないか。

第三節

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略。

025

学問は個別に研究され、実証性に依拠しているが、その真の意味での進捗はその領域の根本構造を問うときである。 根本構造はむしろ直感的に与えられる。

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学問の本来の「活動」は基礎概念を解体し再構築することにおいてである。

027

略。

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学問の基礎づけは、特定の領域における基礎概念の了解の上で物事を組み立てていくことである。 一方で、その基礎づけに先行する研究は基礎概念を存在の根本機構において解釈することになる。 すでに存在している対象を基礎の了解において理解する「論理学」とは異なるこの基礎概念の定式化を「生産的な論理学」と呼ぶ。 これは存在領域をその固有の存在機構において初めて開示し、獲得された諸構造を実証的な学問が利用できるようにするためのものである。 例えば、カントの「純粋理性批判」はその一例(未読なのでよくわからず。)

028

しかし、存在論においてそれをするためには、問いと導きの糸が必要になる。 存在論的に問うことは諸学と比べれば抽象的で根源的であるものの、存在者の存在について問いながら存在一般の意味を問わないのであればそれは見通しが悪い。

存在論には可能な存在のしかたを演繹的ではない方法で構成する「系譜学」(存在様式を存在というものから演繹するのではなく、その差異を直接考察する?)という課題がある。 そのためにも、「〜が<ある>」という<ある>が何を指し示すのかを了解する必要がある。

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存在の問いは、あらゆる学問が可能であるためのアプリオリな条件づけをする。 さらに、そのような存在者的な学問に先立つものであり、さまざまな存在論が可能となる条件をめざす。 すなわち、すべての存在論は存在の意味を解明しない限り、本来の意図を転倒させているものであり続ける。

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以上のように、存在論的な存在探求は、存在への問いを存在論的に優先すべき問いとしてみなす。